2011年秋、私はオランダのアムステルダムにある、”アンネの日記”のアンネ・フランク一家の隠れ家だった場所、アンネフランクハウスを見学しました。
ずっと訪ねたいと思っていた場所。ここにアンネが暮らしたと思うと胸に迫るものがありました。
アンネはご存知の通り、ナチスによるユダヤ人迫害から逃れ、13歳から一家でこの隠れ家に二年間息を潜めて暮らしアンネの日記を残しました。密告により捕らえられ15歳でアウシュビッツ強制収容所で亡くなります。
その7年前、2004年の夏、私はポーランドのクラクフからバスに揺られ、ユダヤ人などのホロコースト、アウシュビッツ強制収容所とビルゲナウ強制収容所を訪ねたことがあり、
ナチスのここでの残虐行為は知ってはいましたが、実際に見ると人の心に潜む悪意の極地を見たようで、戦争とはそんな悪意を容易に引き出し、正当化してしまうのだと心底恐ろしく、数日はそのいやな感覚が身体にまとわりついていました。
当時は過去の大戦の負の遺産として収容所を見学をしましたが、今や戦争、核攻撃、人種迫害、これが過去の出来事とは言えません。
人の一生が戦争のような外圧により断たれることは無残で、
アンネの生涯を思うとき、そのほかの無数の被害者の人生を考えざるを得ません。
アンネフランクハウスで購入したアンネフランク物語を読み返しました。
この本にはアンネの人生と当時の戦禍の情勢がリンクして辿られ、著作権の問題で出せませんが、世に出ていないアンネ一家の画像、生きた証がたくさん載っています。
©︎アンネフランクハウス のポストカードより転載しました。
本棚に模した隠れ家への入り口部分です。
隠れ家での息の詰まる生活の中で、周りとぶつかりながらも若いエネルギーを日記にほとばしらせたアンネ。
数家族をまとめあげたアンネの父オットー氏。
自分の危険も顧みず、隠れ家の一家に食糧等の支援物資を届け続けたミープさんのこと。
隠れ家の建物の構造 3,4階の奥の緑の狭い部分だけがアンネたちの隠れ家エリアです。
善意と悪意が交錯する人の世で、いえ単純に善と悪二つに分けられないことが多いからこそ戦争が起きて、泥沼になるのですね。
近年、SDGSが提唱されて広まるはずが、
思想や人種、性の違いを尊重し合うのが目標のはずが、
コロナや気候変動、貧困など地球規模の問題に世界が一緒に取り組んでいくはずが、
どうしてこうなってしまったのでしょう。
何においても多様な価値観や考え方があることが、争いのもとでもあるのですが、
その中で自身の信念を貫くことは大事で、そんな生き方は好きです。
でも決して自分以外の人にその理解を求めてはいけませんね。
人の執着は他人の目から見ればロクなものではありません。
まして世界に求めるなんてとんでもないことです。
正解のない選択肢の中で、どれかを選択をしなければいけないなら、恐らく新しい寄りの選択、答えが時代に則していて合理的だと思います。
自分の矜持は自身の中で貫く潔さを持ち、アップデートされる社会通念を受け容れながら、残りの人生をできる範囲で自己実現していく覚悟はできたのか?、と、
事があるごとに中途半端に覚悟しては通しきれなかったその覚悟を、この機にもう一度自分に問われている気がします。
地球はどこへ向かうのかわかりませんが、根拠のない希望も湧いてきて、
何かの突破口、それは何かの発明や革新かもしれないし、新しい技術や資源かもしれないし、優れた人物の登場かもしれませんが、それが起きて、
ある日、起きたら良いニュースが世界を駆け巡っている・・・ 。
悪いことが突然起きるなら、良いことも突然起きるのではないか、
・・・などと夢のようなことを考えながら、10月を迎えました。
2022年
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